7

「戦うのは怖くない?」
 サンダースが寝そべったまま煙草を銜えると、それに火をつけてやって女は尋ねた。
「怖いさ。死ぬのも怖い」
 女は目を丸くした。
「驚くことか?」
「だって、大抵の軍人は『怖くない』って答えるわ。そこで私たちが誉めて煽てるの。若い兵士は本当に怖がるから、慰める。でも、あなたはどっちでもないんだもの」
「怖いと言ったろう?」
「でも、怯えてない」
 サンダースは笑った。
「恐怖には慣れないが、それを乗り越えることには慣れた」
「強いのね」
「どうかな。やるべきときにやるべきことをしなければ、自分だけでなく他の連中に迷惑がかかる。そう思えば、何とかなるもんさ」
「もう一つ、訊いていいかしら?」
「どうぞ」
「人を殺した時って、どう?」
 サンダースは答えに詰まった。まじまじと女を見つめる。
「みんなには訊かないわ。あなたなら、答えてくれそうだから。嫌ならいいのよ」
「いや……」
 サンダースはしばらく考え込んだ。煙草の灰を灰皿に落とし、もう一度銜えかけて、やめた。
「初めて殺したときは、無我夢中だった。はっと我に返って、とにかく恐ろしくてならなかった。いくら敵とはいえ、人間だ。人の命が消えるのはこういうもんかと――」
「分かるわ。一瞬で死ぬ人はともかく、段々に死んでいく人って、魂が本当に抜けていくみたいに、すうっとゆっくり――死んでいくのよね」
 女は微笑んだ。「何人も見ているのよ」
 今はフランス全土が戦場だ。この女も、多くの人の死を間近で見てきたのだろう。その意味では、兵士になる前のサンダースより余程修羅場を潜り抜けていることになる。
「それを自分でやるのは、また別なんだ。それに大抵は、一瞬で死ぬ。その方がありがたい。断末魔の悲鳴というのは、聞いていていいもんじゃない。何だろうな、次は自分が地獄に引きずりこまれるような気がするんだろうか。だが、一瞬で死んでくれれば、それは機械的なものだ。慣れる。戦闘が終わると、それまでの緊張感が何だったんだと思う。自分が助かったことに感謝する。それがまた、――愉しい」
「愉しい? 人殺しが?」
「違う。生き残ったことが嬉しく、無事に仕事をやり遂げたことが愉しいんだ。これも快感なんだろうな」
 それからサンダースは、残り少なくなった煙草を銜え直した。
 人殺しは愉しくないさ、と小さく自分に言い聞かせて。


 ムーアがウィリーの治療をしていた。
「死体の確認をしたか?」
「ええ、全員死んでいます」
 ストーンはノートンのドッグタグを一枚抜き取り、答えた。応急処置を終えた肩を押さえ、近付いてきたサンダースにそれを手渡すと、ほとんど事務的に告げる。
「死にました」
「――そうか」
「俺たちを守って」
「あいつが?」
「というより、黒人より凄いところを見せ付けたかったのかもしれません」
 誰に、とは訊かなかった。おそらく、自分の中の誰かに。ノートンは自分と戦いながら死んでいった。最後に勝ったのは、どちらだったのだろう?
「あいつ、俺たちを助けてくれたんだ」
 ウィリーがぽつりと言った。
「軍曹、これって、実験は成功したんですよね? 俺たちのしたこと、無駄じゃなかったんですよね? あいつが死んだのって、無駄じゃないですよね?」
 ウィリーの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。ノートンはウィリーを嫌っていたが、その彼のために泣いてやれるとは、この少年はどこまで人がいいのだろうとサンダースは思った。それとも、ノートンが心の底で怯えていたことを敏感に感じ取り、彼の死を悼んでいるのだろうか。
「ウィリーの傷は?」
「足に一発食らっただけです。モルヒネを打ったので、痛みもないでしょう」
 ムーアが注射を終えて答えた。
「大丈夫か?」
「はい……俺は平気です。軍曹、ダグラス、連れて帰れないですか?」
 サンダースはノートンの亡骸を振り返り、ゆっくりかぶりを振った。
「ここから街までは遠いし、道も険しい。心配するな。後で回収してもらえるさ」
 ドッグタグを持ち帰っただけでは、戦死にはならない。その後死体を回収し、残ったタグと比べて本人と確認されるまでは、戦闘中行方不明の扱いだ。だが、その多くは帰ってこない。戦闘中行方不明イコールほぼ戦死であると誰もが知っている。
「ムーア、ムーア、私も治療してくれ!」
 腕を押さえながら、こちらも泣きながらハガーティが叫ぶようによたよたやってきた
 ムーアは黙って、手招きする。とたん、ハガーティは餌を前にした犬のようにすっ飛んできた。走る元気があるじゃねえか、とハロウェイが呆れる。
「全員、死亡を確認しました」
 その後ろに続いたコールフィールドが報告する。サンダースは頷き、ほう、と息をついた。
 長い一日だった。明け方まで、まだ大分ある。補給処の燃料はまだ燃え続けていたが、それまでには消えるだろう。おかげで明るいし暖かいが、目立つことこの上ない。敵が偵察にやってくるかもしれなかった。
 とはいえ、彼らは新兵だ。古参の兵隊とは比べようもないほど、疲労しているに違いない。夜道であることだし、このまま戻るのは、危険だった。疲弊しているときは、些細なミスが命取りになる。
 比較的元気なストーンとハロウェイを見張りに立たせ、サンダースは三十分だけ休憩することにした。
 ハロウェイはぶつくさ言っていた。ノートンの戦死は、然程ショックでもないらしかった。ただ、ストーンとウィリーが立派だ立派だと誉めるものだから、負けん気を発揮したらしい。死人への嫉妬というのも妙だが、とにかくやる気を出したのはいいことだ。
 サンダースはトンプソンを置き、弾帯を外した。ヘルメットを脱いでぐしゃりとかき回すと、空気が髪の間を抜けて気持ちよかった。ほとんど自分の一部のような装備だが、それでも外すと身軽になって、まるで五メートルは跳べそうだ。
 任務もどうにか達成した。しかも戦死者は一名。まずまずの成果ではないか。
 ワインハウスに誉められたいわけではないが、どうだ、という気にはなる。サンダースは満足していた。気も緩んでいたかもしれない。
 ぜいぜいと荒い息が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。
「伍長?」
 座り込んだコールフィールドの口から、決していい兆候とは思えぬ、荒く細切れの息が吐き出されていた。
 サンダースは立ち上がり、彼の肩に手を置いた。
「コールフィールド、やっぱりお前、どこかやられてるんじゃ――」
 皆まで言わせず、コールフィールドはサンダースの手を弾いた。
「おい――!?」
 次いで彼はその大きな手を広げ、真っ直ぐにサンダースの垢で薄汚れた喉を掴んだ。
「伍長!?」
 真っ先に気付いたウィリーが、素っ頓狂な声を上げた。
「伍長、何をやって――その手を離してください!」
 ウィリーはコールフィールドに飛びついた。だが、彼が軽く叩いただけで、ハガーティと同じぐらい小柄な彼は吹っ飛んでしまった。
「ウ、ウィリー!?」
 ハガーティが目を白黒させている。ストーンとハロウェイが騒ぎに気付いて戻ってきた。そして彼らも、目の前の出来事を理解できずに呆然とその様子を眺めた。
「ふうっふうっふうっ!」
 コールフィールドはギラギラと血走った両目で、サンダースを睨みつけていた。彼の親指が、ぐいぐいと喉に食い込んでいく。
 息が出来ない。血管が潰される。骨が折れる――。
 サンダースもまた、わけが分からなかった。ただ一つ、コールフィールド伍長が自分を殺そうとしていることだけが、厳然たる事実として彼のスイッチを無理矢理に切り替えた。
 サンダースの手は、土の上を這った。俺のトミーガンはどこだ、コルトはどこだ――?
 だがどちらも、彼の手の届く範囲にはなかった。気が遠くなる。目の前が真っ白になりかけた。
 サンダースは最後の抵抗を試みた。コールフィールドの腹を拳で殴りつけようとしたが、しかし呼吸が出来ぬためその手には全く力が入らなかった。
 力の抜けた手が落ちかけたとき、指先が何かに触れた。
「――!!」
 本能ではなかった。それは経験だった。彼の手は知っていた。それが何であるかを。
 ストッパースイッチを押し、ぐいと引っ張る。柄頭が地面にぶつかり、サンダースは反動を利用してそれを思い切り相手の腹に減り込ませた。
 コールフィールドは、それでもサンダースの喉から手を離そうとしなかった。
 駄目だったか――。
 諦めかけた瞬間、不意にコールフィールドの指から力が抜けた。
 サンダースはすかさず、彼に体当たりをぶちかました。
「軍曹!!」
 ウィリーが駆け寄ってくる。
 サンダースは激しく咳き込みながら、地面に息とほとんど空の胃の中身をぶちまけそうになった。代わりに胃液を吐き出した。目は涙でほとんど見えない。
 ウィリーが背を擦ってくれる。
「大丈夫ですか、軍曹!?」
 返事をしようとしたが、言葉が出なかった。空気はどこだ。喉と肺に、とにかく酸素を送り込む。
 サンダースは地面に横たわり、辛うじて呼吸を取り戻した。生理的に流れた涙と口元を袖口で拭い、逆の手で自分の身体を支えて半身を起こした。ウィリーがそれを手伝ってくれた。
「ご、伍長――は?」
 恐る恐るといった体で、ハガーティがコールフィールドの顔を覗き込んだ。そして、「ひいっ」と小さな悲鳴を上げた。
「何だよ、どうしたんだ?」
 ハロウェイもあまり近付きたくはないらしかったが、好奇心が勝った。彼はコールフィールドの傍らに跪き、そして目を丸くした。
「死んでるぜ!!」
「馬鹿な……」
 驚愕のあまり、サンダースは目を見開いた。立ち上がる元気はまだなく、這いながらコールフィールドに近寄る。
 伍長の腹に、彼の銃剣が突き刺さっている。だが、深くはない。その一突きで死ぬような傷ではないはずだ。
「軍曹! 伍長の脇腹!」
 サンダースの脇の下に入り込み、肩を貸したウィリーが指差した。
 コールフィールドの脇腹と腰は、噴き出した血でべっとりと濡れていた。
 サンダースは跪き、傷を確認した。明らかに銃剣のそれではない。ドイツ兵からサンダースを庇い盾となった時に、やはり撃たれていたのだ。だが彼は何でもないと答え、サンダースの目にもそう見えた。
 医者ではないから確かなことは言えないが、コールフィールドの死因は失血死だろう。ひょっとしたらサンダースの一撃が最後の引き金となったかもしれないが、彼はそれを考えないことにした。
 しかし、失血死だとしたら、今の今まで平然と動いていたのはどういうことだろう?
 サンダースの思考は、ハロウェイの怒鳴り声で突如途切れた。
「おい、ムーアとあのニガーがいねえ!!」
 ぎょっとして、サンダースたちは周辺を見回した。
 騒ぎが起きた時、ストーンも駆けつけたはずだ。だが、その後に声を聞いた覚えがない。ムーアはハガーティの傍にいたはずだが、いつの間にか姿を消している。
「あいつら、逃げやがった!」
 ハロウェイは嬉しそうだ。見つけたら、問答無用でぶん殴るか、うっかり殺しても許されると思っているのかもしれない。
 サンダースはコールフィールドの死体に一瞥をくれ、立ち上がった。ドッグタグは後でいい。今は、二人を追わねばならない。おそらく峠のほうへ――そう思った時、両手を上げたストーンが飄々とした足取りで出てきた。その背に、ムーアがM1ガーランドの銃口を突きつけている。
 どういうことだ、と問いたげな視線を無視して、二人はサンダースの前に立った。
「逃げられると思ったのか……?」
「チャンスだと思ったんですがね」
 悪びれも、悔しそうな顔をするでもなくストーンは答えた。
「最初からそのつもりだったのか?」
「まさか。俺は生き延びるのに確実な方法を選んだだけです。あなたの指示に従ったのも、あの時逃げようと思ったのも。俺は詐欺師ですからね、機を見るのは得意なんです。実際、誰も俺が逃げ出すのに気付かなかったでしょう? こいつ以外は」
 ストーンは上げたままの右手の親指で、背後のムーアを指した。
 殺されかかっていた当のサンダースはともかく、確かに誰も逃亡しようとしたストーンに注意を払っていなかった。ムーア一人がそれに気付いたのは、奇跡に近い。
「こいつがこんなに俊敏に動くと分かっていたら、やめといたんですがねえ」
「こんなところで逃げてどうするというんだ?」
「何とかなりますよ。俺はこれでも、フランス語もドイツ語も出来るんです。いざとなったら、敵に情報を売り渡してもいい」
「へっ。2等兵ごときの情報を敵さんが欲しがるかよ」
 ハロウェイが馬鹿にしたように笑った。それに対して、ストーンはにやりとするだけだった。
 そう、ストーンは“情報”を持っている。価値の分かる者なら、喜んでストーンを保護するだろう。使い方次第で、アメリカ軍への信頼と彼らの正義を地に落とすような話なのだ。
「ま、これで俺も強制送還ですね。もっとも」
と、ストーンは死体となったコールフィールドを見た。
「ああなるよりはいい」
 まるで、コールフィールドの死すら予測していたように、ストーンは呟いた。言葉通り、後悔よりも安堵の響きがこもっていた。
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