8

 全ての報告を受け、ワインハウスは走り書きのペンを置いた。
 サンダースはぐったりと椅子に腰掛け、時折首に手をやっている。コールフィールドの指の痕がくっきり残っていた。その感触もまだ思い出せる。喉に胃液の味が蘇ってきて、サンダースは思わず顔をしかめた。
「ストーンには僕も期待していたんだが――、いや期待以上だったと言うべきかな。早々と任務の目的を見抜いたんだから。頭のいい男だよ」
 つくづく惜しそうにワインハウスは嘆息し、すぐに笑顔を見せた。
「よくやってくれた、軍曹。いい報告が出来そうだ」
「……それだけですか?」
 サンダースは抑揚のない声で尋ねた。たかが軍曹が言うべきことでないのは、分かっている。だが、今度のことは異常すぎた。今問い詰めねば、その機会は永遠に失われてしまう。
「何がだい?」
「コールフィールドのことです。あなたは彼と、親しかったんでしょう? 家族の面倒を見ると約束までしている。その約束は――」
「それは無論、守る。彼は実に貴重なデータを残してくれた。家族の面倒を見るぐらい、大したことはない」
「データ? どういう――」
 ふむ、とワインハウスは椅子に深く腰掛けた。眼鏡を器用に避け、こめかみをとんとん、と人差し指で軽く叩く。
「今回の任務はね、軍曹。全て次の戦争への準備なんだよ」
「何ですって?」
「今の戦争は、そう長くはない。一年がいいところだろう。だが、世界中どこでも戦争はある。それにアメリカという国は、他人の諍いに首を突っ込みたがる体質だ。遠からず、またやらかすだろう」
 今現在、自分が置かれている戦いの終わりすら想像できぬサンダースにとって、ワインハウスの話はまるでSF小説の設定を聞いているかのようだった。
「その次の戦争でどう戦うか、全てそのための準備なんだ。一つは情報戦」
と、ワインハウスはこめかみから離し、人差し指を立てた。「敵に、この街に我が軍の強力な部隊が集結しつつあるという情報を流した。と同時に、それが嘘かもしれないという反対の情報をもだ」
 サンダースはハッとなった。補給処という話にも関わらず燃料が少なかったのは、敵がこちらの動きを探っていたからに相違ない。部隊集結の話が本当なら、すぐに大軍が集まり総攻撃となったのだろう。逆に偽情報なら、仮に潰されてもぎりぎり惜しくない程度の燃料を置いてあった。
 そこに配属され、皆殺しにされたドイツ兵にとっては溜まったものではないが、士官にとって所詮兵隊は数字の上のことでしかない。少なくともドイツ軍にとって、賭けてもいいほどに信頼の置ける情報だったのだろう。どのようにして流したのかは、サンダースは興味がなかったし必要なかった。
「今回の場合は敵がこちらの情報通りに動くかどうか、のデータだ。今後更に、情報の価値は上がるだろう。そのためだね。二つ目が、キミに話した即戦力となる兵士だ。あまり頭のいい者は良くないな。機を見て、すぐに敵に寝返りかねない。だが、他の連中についてはまずまずだ。あの三人は、いいテストケースになった」
「三人?」
 サンダースは眉を寄せた。死んだノートンと強制送還されるストーンを除けば、四人のはずだ。
「そして、三つ目は」
 まさか三つ目があるとは思わなかったサンダースは、嫌な予感を覚えてワインハウスの顔から視線を外した。聞いたら最後、戻れぬような気がした。
 外のドアがノックされ、ワインハウスの返事を待たずに開いた。サンダースは振り返り、唖然とした。
「ムーア……!」
 ムーアは真っ直ぐにワインハウスの隣まで歩き、椅子を引っ張ってくると許可も得ずに腰掛けた。その階級章と徽章を見て、サンダースは驚きを禁じ得ぬまま、問うた。
「軍医殿だったのですか……」
 ワインハウスがにやりとした。
「改めて紹介しよう、レイトン少尉だ。若く見えるが、これでもキミより年上だよ、軍曹」
「騙していて、すまなかった」
 不思議なもので、「2等兵」だった時には老成して掴みどころのない男に思えたが、今は同じ口調でも階級と年齢に相応しく落ち着いた物腰に見えた。
 サンダースはかぶりを振った。彼の読みは間違っていた。見張り役はコールフィールドではなかった。
「ちょうどよかった、レイトン。キミから、コールフィールドについて話してやってくれ」
 レイトンは怪訝そうに片眉を上げた。
「軍曹が知りたいと言うんだ」
「しかしあれは、極秘です」
「構わん。僕は軍曹の口の堅さを買っている。彼は喋らんよ」
 サンダースは思わず立ち上がり、そのままドアから逃げ出したくなった。これは、一介の下士官が聞いてはいけない話だ。
 しかし、身体は動かなかった。彼は知りたかった。コールフィールド伍長の死の真相を。気付かぬうちに、また首を触っていた。
「上層部が、優秀な兵士を作り上げようとしていることは?」
 サンダースは頷いた。殺人犯を戦場に送り込んだのも、その一環だ。
「彼らは、痛みや恐怖を知らぬ兵士を作ろうとしている」
 サンダースは弾かれたように顔を上げ、レイトンの顔を穴が開くほど見つめた。コールフィールドの最期を思い出し、一瞬にして理解する。
 痛みは、自分のダメージを知るための大切な感覚だ。あの時、それが分からなかった彼は、故に失血死するまで、自身でも傷の深さに気付かなかったのだ。
「何てことを……」
 全身から血の気が引いていくのを感じた。声が掠れた。喉がカラカラに渇いている。
「どこの国でもやっていることだよ」
と、ワインハウスは平然と答えた。レイトンが続ける。
「脳を弄る方法もあるが、我が国ではそこまで医療技術が発展していない。従って今回は、モルヒネを改良した麻薬を使った」
「嫌がる兵士を飛行機に乗せるために使う国もあるそうだよ。恐怖もなくなるが、判断力も鈍るし、本当は僕も反対なんだが」
「私はその経過を観察するためもあって、作戦に参加したのだ」
「コールフィールドを実験に使ったんですか……?」
「彼の家は貧しい農家でね。伍長が兵隊になったのも、口減らしと出稼ぎのためだそうだ。僕らの申し出に、彼は喜んで飛びついたよ」
 膝の上で、サンダースの拳が強く握り締められた。爪が手の平に食い込んだが、痛みは感じなかった。口の中ではギリ、と奥歯が擦り切れそうなほどの音がした。
 それではまるで、家族を人質に取られたも同然ではないか。それをコールフィールドはご丁寧に感謝し、恩があるとまで言った。
「僕らなどと、一緒にしないでいただきたい」
 不満そうにレイトンは言った。
「私は反対した」
「僕もだよ、言ったろう? 案の定、副作用の幻覚症状で、危うく軍曹が殺されるところだった」
 ワインハウスはかぶりを振った。「重大な損失だよ、それは」
 そんな風に言われても、有り難いとはちっとも思えなかった。あの時、コールフィールドには敵が見えていたのだろうか。それを確かめる術はない。
 二人の士官は、極秘事項を話しているとは思えぬほどのんびりとした口調だった。まるで、政治問題について好き勝手に語る酒場の男どものようだ。その自然さが、サンダースには不気味だった。
 ワインハウスはともかく、医者であるレイトンのこの冷酷さはどういうことなのだろう。それでも、この人体実験について反対だったと告げた時は、救われた気がした。
 だが、それを見透かすようにワインハウスはクスクスと笑い出した。
「軍曹、キミ、レイトンがまともな医者だと思っているんじゃあるまいね?」
「どういう意味です」
「この部隊は“人殺し”部隊なんだよ。レイトンだって、例外じゃない」
「それは――医者です、救い損ねることだって、あるでしょう」
 医者が誰も彼も救えるなら、この戦争に戦死者はいない。病気で死ぬ人間もいない。神などほとんど信じぬサンダースであったが、人知の及ばぬ領域は確かにあると思っていた。そこでは、医者の存在など何程のこともない。その意味では、確かに医者も人殺しではある。
「キミのように考える人間が大勢いる限り、医者というのは最も合法的に人を殺せる商売なんだよ」
 サンダースは絶句した。レイトンは何も言わない。
「まさか――」
 喉がカサカサに張り付いていた。唾を飲み込もうとしたが、喉の奥からは何も湧き出てこなかった。サンダースは無理矢理に喉を鳴らしてみた。ごくり。喉仏だけが動いた。コールフィールドに絞められた痕が、ひりひり痛む。
「わざと……?」
「まさか」
 レイトンは表情一つ変えず、肩を竦めるといった仕草もなく答えた。
「私は人の可能性を信じている、それだけだ」
 意味が分からず返事せずにいると、レイトンは渋々続けた。理解できぬ子供に、根気強く説明する教師のようだった。
「空を飛びたいと思ったことはないか?」
「――子供の頃は」
 戸惑いながら答えた。活発な子供なら、一度や二度は考え、試すこともあるだろう。サンダースは早くに現実――人間は飛べないということ――を知った。弟が二階から飛び降りて、足を折ったのだ。父親には弟を見ていなかったからと、こっ酷く叱られたものだ。
「人類の夢だ。今は飛行機がある。もっと発達した機械も生まれるだろう。だが私は、人間が自力で飛べないかと考えることがある」
 益々意味が分からない。サンダースは眉を寄せた。
 ワインハウスは笑いを堪えきれぬ様子で、レイトンの言葉を補足した。
「背中に羽を生やすか、腕を羽に出来ないものかと思っているんだ、この男は」
 サンダースは呆気に取られた。「まさか」と彼は言った。そんな夢物語を本気で考えているとしたら、この男を医者として信じることは到底出来ない。
「私は人間の限界と可能性を論じているだけだ。例えばキミの腕が使い物にならなくなったら」
 サンダースはドキリとした。かつて大火傷を負ったことを知っているのだろうか? ワインハウスなら承知しているかもしれない。何しろ、あの事件は記録としてきちんと残っている。
「切断して、別の人間の腕をつける」
「何ですって?」
「今は義手や義足だが、適合さえすれば他人の身体でも構わないわけだ。同様に心臓や腎臓、肝臓なども出来るようになるだろう。脳は無理だな、他人になってしまう」
「それは――」
 神の領域だ、とサンダースは思った。
「出来るようになる。理論的には可能だ。後は技術の問題だな」
 サンダースはぞっとした。
 腕を触りながら語るレイトンの顔が、この上なく楽しげに見えたからだ。ワインハウスの言う通りだとしたら、この男はその技術を向上させるために、わざと何らかの処置を施し、患者を死なせたのではないだろうか。
 そしてコールフィールドへの麻薬投与を反対したのは、――彼の脳を弄ることを考えていたからかもしれない。
「顔色が良くないな、軍曹」
 ワインハウスはくつくつと喉の奥で笑った。
 いつの間にか俯いていたサンダースは、はっと顔を上げた。
「心配するな。キミに何かあっても、少尉には手術はさせない。実験台にするつもりはないから」
「――なぜ」
 唐突に、サンダースの口を突いてその疑問は出た。声は、震えていた。
「なぜ俺を……?」

「この部隊は“人殺し”部隊なんだよ。レイトンだって、例外じゃない」

 ワインハウスはそう言った。そして、サンダースに対し、やたら便宜を図る発言を繰り返す。
 おや、とワインハウスは驚いたようだった。
「気付いていなかったのか。案外、自分のことは分からないものなんだな」
「答えてください」
「いや、気付いていて答えを避けていたというべきかな。もう分かっているんだろう? 僕がキミを選んだのは、キミに“人殺し”の才能があるからだよ、サンダース軍曹」
 足元でガタンと音がした。ふくらはぎに横倒しになった椅子がぶつかり、サンダースは初めて自分が立ち上がっていたことに気がついた。
「俺は」
 サンダースの言葉を遮るよう、ワインハウスは人差し指を左右に動かした。
「キミは命令を忠実に守り、任務を完璧にこなす。実に貴重な才能の持ち主だ」
「俺は軍人です。命令を守るのは当然です」
「だが、それを完璧にこなせるかどうかは別だ。状況を冷静に判断し、最も効果的な行動を取る。必要とあらば、冷徹に敵を皆殺しにする。今回のようにね」
「命令でした」
「そうとも。キミは“命令”で良心を殺せる。彼らにとって、いい手本になったろう。必要とあらば、仲間すらも手にかけることもあると」
 サンダースはぎょっとした。
「中尉殿、まさか」
「伍長のことは、単なる偶然だ。僕も彼には生き残ってほしかった。だが、どちらかと問われればキミだ。キミは非常に飛びぬけた才を持っているんだ。事、人を殺すという点においてね――」
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